栗材のテーブルができた。制作工程の途中でも「ひとまずできた。」と思えるのは塗装の工程を残すのみとなった時。木取りから始まり、削り、組み立て、塗装の為の生地調整と進み、さてと全体を眺める。全体のバランスはこれで良かったか、ディティールに不備はないか等の確認もあるが、調整しながら進めてきているのでここで大きく手を加える事は無い。この「眺める」で無塗装の木の表情を束の間愉しみたいと思い、記憶しておきたいとも思っている。次の工程で塗装を施してしまうとこの状態へは二度と戻す事はできない。家具店に並ぶ量産品も我々が作るオーダーメードの物も大半は何らかの塗装が施されてありユーザーがこの無塗装の状態の製品を目にする機会はあまり無いはずだが、木の生き生きとして艶やかな表情に被いがされていない状態で形は完成しているのだから、ともすると一番いい状態で綺麗だといつも思う。ではなぜ塗装をするのかと言うと第一に表面の保護剤でありまた表情に深みを出す化粧ともなるからだろう。今回のテーブルもこのまま使い始めるとそれは気持ちがいいはずだが、一ヶ月もすれば手垢、染みが付いて、日差しが差し込む明るい部屋であれば色も少し付き始めるだろう。スッピンで美しい女性も毎日そのままでは日焼けも気になるしシミが出来てしまっては取り返しがつかない、そして更に美しくなりたい・・・と似ているかもしれない。 それでも思い切ってダイレクトな木の経年変化を味わいたいという方には、樹種や作る物の種類にもよるけれど稀に無塗装の製品を提供して使って頂いている。これはオーナーの努力も必要だが深い味わいが出てきている。 塗装もまた大切な工程なのでその種類や特徴等についてはまた何かの機会に紹介したいと思う。
教会に長椅子を納めた。背もたれの後ろに聖書台があるのが一般的な椅子とは異なる特徴で、今回長さは各2m10cm。 この教会の信徒さんが工房を訪ねてくれたのがこの仕事の始まりとなった。打合せ、納入場所の確認に何度か伺ったが、日曜日だと子供さんからご老人まで老若男女が日曜礼拝に集う、牧師さんが女性という事もあってか柔らかな雰囲気の教会だった。私はクリスチャンではないが教会の建物の中にしばらくいると気持ちが少し落ち着くような気がする。旅先などで大聖堂の圧倒的な空間を訪ねても、また片田舎で小さな寺院に足を踏み入れてもその気持ちは似ている。ある本に依るとそれは日本人の独特の宗教感覚に由来すると言っている。多くの日本人は「無宗教」を自称しながら神社やお寺、教会あるいはモスクでしばらくゆっくりと座っていると敬虔な、心が洗われるような気持ちになるはずで、それはある宗教以外は認めないという排他的な思いを持たず、広く神仏を信じる気持ちを強く持っているからだと言う。私はその気持ちの由来は日本の気候風土に依るところが大きいと感じる。今年のような大災害に見舞われると人間の無力さを強く感じてしまう機会となる、神に祈り、仏を拝みたくなる気持ちは自然に生じるものだ。 先日作業中に訪ねてくれたアメリカ人の友人が教会の長椅子(信徒席)の事を英語では特別にpew(ピュー)と言うんだと教えてくれた。この椅子にも長い年月をかけて人々の祈りが染み込んでいくのだろう。
淡路キリスト教会 / 淡路市岩屋
前回夏の初めに暑中見舞いを書いてから瞬く間に月日は経ち、季節は秋。朝晩が涼しい、から少し寒いという言葉に変わる頃が日中の作業場での仕事が一番はかどる頃かもしれない。季節も良いので先日妻と神戸の御影にある香雪美術館の展覧会に足を運んだ。御影は私が通っていた高校があり、また独身時代に近くに住んでいた事もありとても親近感を覚える街、この美術館はその静かな住宅街の中に佇んでいる落ち着いた小さな美術館で以前から好きな場所だ。展覧会では作品の批評などおこがましいので、展示作品の中から一点だけ自分に頂けるなら何れを選ぶかという見方をしてみる。岐阜の師匠から聞いて以来そうしているが、かしこまって展示されている作品が随分身近に感じる。私がいいと思った茶碗を妻もいいと言った。なんて書くと仲のいい夫婦のようだが ・・・・・ どちらが頂くのかそれでもめるのかもしれない。秋もまた楽しもう。
私は二十代の会社勤めをしていた頃、会社の休みがが平日だった事も有り一人で神戸の街の骨董屋又はアンティークショップを訪ねて回るのがちょっとした趣味だった。どの店も若造を心良く招き入れてくれていたが阪神淡路の震災以降店を閉めてしまったところが多い。神戸の経済状況やアンティークと呼べる年代のものが品薄になって来た事が理由だが街の深みを出していた部分が今少ない事が寂しい。一軒の店の店主を久しぶりに訪ねたところ家具の修理を頼まれて作業場に持ち帰った。19世紀フランスのコンソールだが細い線でよく長い年月頑張ったなと言いたいし、小さいものだが作った人の繊細さと大胆さには見習うところが有る。また脚の間にある棚は豆の形をしていて、日本でも「まめまめしい」と怠りずにせっせと働く事を良しとするが、英語やフランス語にも同じようなニュアンスの言葉があり「full of beans 」は、元気いっぱいで、達者でという意味、ポジティブさを造形にした一つの表れなのだろう。古いものを前にそんな話をするのが面白いじゃないか。
次は20世紀のトレー・・・いやこれは私が十数年前に友人の結婚祝いとして作ったものだが長年の内に取手が破損してしまったとの事で修理を引き受けた。夫妻と共に時間を過ごして来ているのでキズも部材も出来るだけそのままにと思ったが、よくよく診断して先の年月の事を考えると取手部分の部材は新しいものに挿げ替える事にした。これはトレーとしては使いにくそうに思われるかもしれないが、料理好きの友人に客をもてなすトレーとしても、料理を盛るプレートとしても使えるようにとデザインしたものだ。「形に意味を」といつも思っている。